回避が作る信念
- Miyo Okajima
- 8月3日
- 読了時間: 2分
【ある性被害者(当時小3)の記憶】
•迎えに来た両親の顔を見て初めて声を上げて泣いた。警察での事情聴取などを終え、帰宅してから母と一緒に風呂に入った。
•「お母さんが洗ったらきれいになるからね」。手を泡でいっぱいにして洗ってくれた。
•母のやさしさは心にしみた。だが同時に、《私はやっぱり汚れたんだ》とも思った。
提供:朝日新聞デジタル「-性被害に遭った小3のあの日 家族でケーキを囲むまで」
◇この記事を読んだとき、とても切ない気持ちにさせられました。このお子さんの気持ちもわかるし、お母さんの気持ちも容易に想像つきます。こう言ってあげたかったお母さんのことは誰にも責められません。

【図の説明】
◆汚れや嫌悪感があれば誰でも避けたくなります。例えば、「洗う」「拭く」、不安があれば「確認する」ということ。そうやって【避けた】ということは、そうする前には【不安や汚れがあった】ということを証明します。【避けるほど汚かった】と脳が認識してしまいます。
◆一方で避けなければ、それは何もなかったこと(すなわち汚れも嫌悪感も不安感もなし)となりますが、ここで大事なことは【なしは証明できない】ということです。科学的にゼロを証明することは不可能です。そのため、私たちの日常は”ほぼ”なしを基準に営まれています。でも、”ほぼ”が嫌いな完璧主義な人たちは、”ほぼ”なしは、ゼロではないわけだから、念のため洗おう/洗うべき、確認しよう/しなくちゃ と、し始めます。
◆”ほぼ”なしを、念のためと避けると、汚れがあったのだ、不安があったのだということになってしまいます。これが悪循環の始まりです。そうして、なかったものを”あり”に変えることが頻繁に起きてしまいます。あら、大変・・・。これが「回避が作る信念」へと発展します。できるだけ、ガチガチに固まる前に崩しましょう。回避を減らす、回避のルーティンを壊す/ずらす/ゆるめる/なんでもいいから違うことをやってみよう!です。
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